寺院案内

本寺の縁起

正源寺の縁起

正源寺は天正20(1592年)年に開創されたお寺です。年表で言うところの安土・桃山時代、豊臣秀吉が北条氏を攻めた小田原の役から二年後のことでした。当時の茨城県(常陸国・下総国北部)は刀や槍を振りまわしていた戦乱の余韻が色濃く残る不安定な地域で、牛久沼と筑波山に囲まれたこの地は戦略的の要衛にあったことから小田氏・岡見氏・多賀谷氏などが沢山の城を建城し、関東の覇権を争った北条氏と佐竹氏もこの地を基盤に互いにせめぎ合う群雄割拠さながらの地域でした。

お寺が建てられるきっかけとなったのは小田原の役後、母君の功により上野国(群馬県)から転封された由良信濃守国繁公が牛久城に居を構えてからでした。小田原の役前後に滅亡した小田氏、岡見氏と犠牲になった大勢の人々の御霊を弔いたいという母君の願いを国繁公は受け入れられ、金銀米穀多く費やして戦場となった各地に七観音八薬師を建立したのが機縁です。戦国の世を生き残るための熾烈な合戦の日々を送り続けた武将だからこそ、無念を遂げた命に対して精一杯のご供養をされた由良親子の「慈悲心」が伝わって参ります。この時に国繁公が建立した正源寺の前身牛久観音久宝山正源寺は現在も山門脇にあります。記録では坂中縫殿之助奉行のもと天正19年夏より普請され、天正20年(改元して文禄元年)4月18日に入佛されたとされております。

江戸時代に入り由良家は二度の公収に遭い、高家職(準大名待遇の旗本高家職26家の一つ)として現在のひたちのうしく駅近辺の猯穴町に移り、牛久藩主は譜代山口氏によって治められます。山口家二代目の弘隆公の時代になると、牛久藩の陣屋を牛久城跡に定め、お寺の門前の町並みは水戸街道の中央に位置する重要な中継駅「牛久宿」として整備され、旅籠屋が建ち並び、様々な商工業者が立ち並ぶ宿場町へと変貌しました。宿場町の中央に位置した正源寺に厄除けの馬頭観世音菩薩が奉られていたこともあり、牛久宿の安寧や街道を行きかう人々の安全を見守るお寺として弘隆公の支援を受け、現在の瑞雲山正源寺に改められております。信仰で心の潤いの場を作りだし、それを自身だけでなく人々の「生きる支え」にされた弘隆公の功績は当山にとって大きな影響を与えます。弘隆公によって正源寺は「瑞雲山正源寺」と改められ近江から中翁全最大和尚を招聘し開基として名を残されております。

正源寺は宿場町の映し鏡

実は正源寺には開創以来の馬頭観世音菩薩、釈迦牟尼如来、過去帳等の重要なものを除けば、貴重な資料や宝物が現存しておりません。牛久宿は旅籠や、茅葺き屋根が軒を連ねていた事もあり、幕末までに何度も大きな大火に見舞われたといわれ、そうした背景も一つの要因ではないかと伺えます。

そうした背景のもと、いつ頃か定かではありませんが大火が起きないように、御堂内の観音様(馬頭観世音菩薩)を正源寺の本堂内須弥壇上(本尊様を安置する場所)にお移しし、火伏せの秋葉三尺坊大権現を勧請し奉るようになりました。苦難の道にあって、立ち上がる人々の希望が篭っているのでしょう。火伏せだけでなく、人生の節目の願掛けにお参りするといいと言われております。
また境内には石仏が沢山並んでおります。一番古いものは第二世住職の建立したもので、寛文年間(1661~1672年)の頃に何かの建立に因んで建てたものです。その頃から多くの人々が、大切な人の菩提のために石仏を建ててまいりました。正源寺が石仏のお寺と言われるのはそれが由縁です。

お寺の歴史や、祖先が築いてこられた多くの業績等を振り返ると、思いもよらなかった過去(歴史)が見え、私たち自身の心を豊かにする修行の一つとなるのではないかと思います。歴代の住職方の尽力と住職を核にし正源寺を維持してこられた、篤心の檀信徒の厚い信仰心に深く感謝致したいものです。。

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